一里塚の道標から調査のスタートだ。馬指野集落を過ぎて橋を渡り400m進みここに来る。
ここまではスタッフ「ヒロコ」の運転する車輌だ。

「萩野ノ平」一里塚への道標がある。萩野と平のあいだの「ノ」の表示は幼い昔からそのように教えられていたのであえて表記した。文献では「ノ」はない。
幕府の施策により当藩でもその行程を藩内に設けた。宮古御水主町(現宮古市)から大槌に至る9ケ所のうち山田には(石峠・田名部・間木戸・龍泉寺・萩野平)の5ケ所があり岩手県内でも稀有な史跡として残る。

初日の調査で(小谷鳥海岸)に置き忘れた「デジカメ」はスタッフが回収したのでここからはバッチリだ。
山田町は治安がマイデよろしい。大都会ではありえない。忘れ物、失せもの、などほぼ持ち主に帰るのだ。
NPO問題を除いてだが・・・
道標のとおり進むと分岐がすぐある。まもなく始まるシイタケの栽培のための「ホダ木」
原木の伐採だ。

左側はかつての畜舎の(推測)跡地であるこれを見て右へとること。

ホレボレするような「ナラの木」がゴロゴロ横たわる。落葉期に伐採すると切り株から幼芽が春に出て再生していくのだ。少し進むともう一つ道標がある。

「史跡萩野平一里塚」とある右側の松と杉の混じった林間を指している。

すこしわかりづらいが30〜40m位進むと小高い墳墓に似たミニチュア風の塚がある。
当時は槻木(ツキノキ)やケヤキなどがその頂(イタダキ)に植えられたそうな。小生が小学生の遠足コースの時代には萩野ノ平は牧野のイメージでここには松の木などは山手にあった程度。と記憶している。

塚へまい進するスタッフ(uedakun)若干ヤブコギだ。

これの確認の後にヤブコギも抵抗があるのですぐ南側にあるキノコの栽培地を近道した。
この時期は農閑期だから容認されると思うが、普段はもと来た方向へもどること。
李下にカンムリを正さず。ウリの畑に履き物を入れるな・・・・だ

ルートに戻るとすぐに分岐があり丁寧に作られた道標がある。

ヤマクジラの肉が2.4kgて゛森のロリータ店にて販売中!!ではない正しくは教科書のように右読みすること・・・・右手に進む

すこし進むと小川を渡る左へのキノコ栽培地、直進する作業道と右手側への3ースがある。

良く周囲を見ると右手に同様の道標があり右手へ進む。どう見ても小さな尾根を切り拓いた道だ。
つまり切通しだ。馬が通れる道幅である。

同様にオランダ街道と名付けた道標もある。

それにしても先人の努力が偲ばれる。

画面の右上部に道標がある。歳月を経て道の両サイドが崩れている。しかしトレイルにはなんら不都合はない。

この小ピークを越えて左手に石碑と出会う。

右から天明年間 劔 當 〇 没禅定門 百五十年期 供養と彫られてある。
※〇は読めない文字
サイズはおおよそ縦(一尺五寸、横幅は一尺か)
宝暦・明和・天明までの30数年間で「劔 當」や「禅定門」の彫りがあるのはこの地方の道普請に壮絶な努力をした人に限られる方の碑。鞭牛和尚のみである。(1,782年没)この年から150年期と仮定すれば数え年で1,931年(昭和六年)の建立だ。織笠馬指野の方が供養のために
ここに建立したか・・・・・

この小さな流れを渡り右手に進むとすぐに

ケヤキの古木があった。すでに天命は全うしている。山田町保健センターが作成した
HEALTHY GROW YAMADA 「健康の道」と題したハイキングコース
のひとつにこのコースも存在していた「鯨山ハイキングコース」である。
その中には「矢立の滝」の紹介もある。その昔織笠の館神に城があったころ大槌から
鯨峠を越えて敵が侵入してきた。これの防御のため矢を放ったところ七滝のそばにある
ケヤキに当たり突き刺さったといふ。その矢は、つい最近まであったそうナ・・・・。
でもって矢を探すが無い・・・・・

これは来たルートを振り返ったものである。緩い斜面を来ている。

分岐だ直進は「滝」へ左は鯨峠となる。この境界には石を取り除き歩き易くして積み上げて
ある感じだ。

「矢立の滝」へとある。

少し歩を進めると朽ちた鳥居があった。どの様なものを祀っているか現時点では不明。

桂(カツラ)の木が付近には多い。

自然発生した杉の木も混じる。

このような物体も散見された。そういえばこのルートの天空には送電線が走っている。

水神宮と遭遇する。古くは社殿はなくても「神社」としたそうな。神聖な山、滝、岩、森、
巨木などに「神」が宿るとして敬うのだ。
・・・・・・ここでディスク使用量が限界値を超えた・・・・・・・・再申請するも
日曜日である。 この続きは次週となる。

と畏敬の念を抱きつつ歩を進めると第二の鳥居が現れた。やはり朽ちてはいるが
この先にある「滝」を祀る参道なのか・・・・・・・

その構造を参考のためアップに撮った。要所は「ホゾ」で組んである。

ケヤキの木があちこちにありどれが矢が刺さったのか・・・・などの思いが噴出
してきた・・・・・

やや急に右手にかかると「矢立」と「七滝」と書かれた道標があり滝はもう
直近だ。
渇水期でもあり水量は多くはないが時節がくれば壮観だろう。

手前は、やはりケヤキ、向こうがわは「トチ」の木だ。数ケ月もすればこいつの
花の蜜を集めにニホンミツバチがくるカモ・・・・・
蜂蜜ではアカシアとトチの花からのものが小生は大好きなのだ。盛岡と宮古を結ぶ国道106号にある大峠・小峠地区の産出するものが優秀だ。

この滝の名称が二つある。七滝とすれば大小でも複数は必要だ。この上流にまだ
有るかもしれないなどと次の機会にあらためて調査とする。

「矢立」の説では射た矢が付近のケヤキの木にとある・・舘神又は立神館から
の距離は直線で4,500mある。ヘラクレスの豪弓でも無理か・・・・
もうひとつは「携帯筆記用具」の形にも似る。私感ではこの滝をみるとこの矢立
の形に見えた。・・・・よく尋ね、よく調べてみること。

往路ではこの斜面の右下を鳥居を見つつ進んだがルートはこれが正しい。
復路ではこのように道標があった。

老木の巨人だ。

鯨峠コースへ戻り15~20分も歩くとこの道標に合う。ここまでの間の写真は撮り損ねたが沢沿いに登って
きた。前方に尾根を切り開いた「切り通し」が見えるとすぐ手前にこの道標がある。

「切り通し」(峠)の東に鳥居があるというのを想い起し登ってみる。後からくる上田君。
画面には古い鳥居の柱の一部がある。

そこから南を見る。小鯨や波板不動滝へ下ってゆく道が見えた。

同様にこの下にコース(切通し)がある。
この鳥居跡から東へ少し進み北側の小沢へ降りると道標からササヤブの中を来る道と合う。
さて、ここで二人で戸惑った。小生のイメージでは鳥居のある尾根を真東に登った記憶が
強くあった。尾根は二つある。一つはこの尾根と沢を境にやや北側の送電線鉄塔がある尾根
だ。ダメモトで見遠しの良い鉄塔まで位置確認の為に電線管理の作業道をゆく。
鉄塔まで来るがルートがあいまいだ。事務所へ電話する。幸い事前に小生のpsにグーグルを
利用してルートをほぼマーキングしておいたモノをスタッフに見てもらう。
やはり、この鉄塔のある尾根を東へ上るのだ。しかし道標が無い・・・・・
付近をよくみるとL字型の鉄製の杭が山側のササヤブとの間にあった。ヒョットしてと
ヤブをのぞくと「ケモノミチ」にも似たルートがあった。

このヒトの肩までのササヤブ道を進む。

小生は手ブラだが上田君は両手にグッズで難儀する。

ハァーハァーしながら登ると間もなくササも低くなり道標があった。ルートは正解だ。

北(左側)には見慣れた「大沢山〜明神崎(天ケ森)」への稜線が見える。山田湾も・・

登りもゆるくなってきた。が・・・フンだ・・・それにしても今回も会うなァ・・

道標がある。

不動滝とあるのが今来た道である

ついに樹間から電波塔が見えた。

このルートから少し左にズレテ小ピークがある。

社があった。

頂上にある社とは別にある。初めて気付いた。

裏面に文字が彫られているが小生には判読できない。
そういえば馬指野集落に石碑群があってその一つに「鯨山神」というものがあった・・・・
これはその本社かもしれない。頂上の社はその奉納した方々の氏名は吉里吉里とか大槌の方が
多い。想像だが大槌地区と山田地区とで別に「ヤシロ」を祀っているのかもしれない。

登ってきた往路を見る 高滝森の山容と遠くには片羽・遠野三山の六角牛の山々が見えた。

電波塔は目の前だ。

その管理棟の外柵(フェンス)の右(南)端へルートは続く。

その右側面を進むノダ。

その端(ハシ)に鯨峠と小鯨・不動滝への導標がある。今回のルート。

この導標を南に見ると大槌湾の方向が見える。

粋なはからいで冬季の天候急変のときの雨宿りのためか解放されている。

その対面する方向に頂上へのコースがある。
この駐車スペースへは不動の滝から車両でくることも可能だ。(車種にもよるが)
「セッコギコース」ともいふ。左手へ巻くようにルートは続く。

やはり第二電波塔のフェンス右側をルートは続く。

ここの右サイドを通り抜け本コースとなる。

ルート補助のロープなどの幾つかのサポートがあり頂上に着く。
残雪はいまだに固いが表面のみだ。ドフドフと所によっては踏み込んでコケル。

頂上からの吉里吉里(大槌町)と野島を望む。

一見、素晴らしい景観だが幾度か見た小生にとってはかつてのものとは異なる感がする。

これは船越半島の南端とタブの大島(船越大島)だ。

やや北側の船越半島だ「田の浜」地区の集落が見える。往古から歴史のある集落だ。

2013年に今後の震災のダメージ緩和のための施策で半島西寄りを周回(迂回)するライフライン道路が計画された。このルートには「埋蔵文化財」や「史跡」がある可能性が高い。この4月にここを含めて間木戸・澤田・佐々木漁業部の上部などいたるところで調査がなされている。
小生の同級生に地区のインフラと文化財の保護の両方に係わる役目のヤツもいて辛い心情を吐露した。合点だ。
それにしてもこの眺望はどこまでも「青い空」と「碧い海」が続く・・・・・・・

二人で記念撮影をする。
たかが3日間、されど3日間の調査が完結する。この先はかつての大沢コースへ下る。
開花までは早いが「イワウチワ」を愛でるコースだ。

想定したとおり昨年の落葉に守られて開花を待つ。

やがて、「青少年の家」が眼下にも見えてきた。

「健康の道」と題した道標もある・・・・

緩斜面になり分ギは間近となる。

左へは「押立て岩」への新田コース、直進は再度登りとなりナントカのコース、右は初日調査の大沢コースとなる。ジオパークやエコなにがし、など多様なメニューが計画され地方紙の岩手日報でも紙面がにぎわうことも多くなった昨今である。
それはともかくとして「盛者必衰」のたとえのようにメディアに翻弄されないものがたくさん山田の地に有することを再考願いたい。
・・・合唱・・・・jun.m