2012年10月06日

不動明王と荒神社

2012-10-3 遠野市の水光園へ湯アミに行く。山田町から
国道45号線を南下して鵜住居から県道35号線を西へ進む。
笛吹峠の手前の「青の木」と「和山」を源流とする鵜住居川を
沿うこの道はルートの変遷はあっても古来から遠野と沿岸域を
結ぶ街道であった。三閉伊の一揆でもこの街道が主なルートで
あった。途上の栗林地区にはそのリーダー的役目の方の碑もある。
IMG_遠野紀行-1.JPG
青の木集落を左に見て笛吹峠を越えると蛇行する下り坂となりやがてこの
「不動明王」の社が左側にある。
IMG_遠野紀行-2.JPG
20代から幾度も往くがあらためて拝謁するのは二度目である。
鋼製の赤い「鳥居」にはその「不動明王」の門標に昭和50年5月
長澤久雄とある。十数年前に知人から山田町の方が寄進(建立)したとの
教えを思い出した。どこかで聞いた名前の方だ・・・・・
通称は○幸さんだ。(円のなかに幸と表す。のが符号である)
加工屋(水産加工)さんであった。魚類の干物や加工品を販売していた。
店舗は「いとしき日々」に投稿した旭金物店の向かいで筋向いは
ホカ弁(曖昧だがこの角は前身は時計屋さん)と記憶する。
ここにも遠野と山田町を繋ぐ縁があったのだ。
IMG_遠野紀行-3.JPG
その碑と社である・・・
IMG_遠野紀行-4.JPG
碑には大正十四年四月八日 青笹村・立石・菊池重之助・建とある。
さらに、金五円也・寄附有・菊池與佐ェ門とあった。
(※判読に間違いがあればご容赦を・・・)
IMG_遠野紀行-5.JPG
社の屋根は苔むしている。建物でいふ外壁には松竹梅が三方にそれぞれ
彫られていた。
IMG_遠野紀行-6.JPG
前後したが菊池両氏が彫られている。
「街道をゆく」という書籍をシタタメタ今は亡き方が脳裏に浮かぶ。
IMG_遠野紀行-7.JPG
直近の街道には「ミズナラ」のドングリが・・・・・・・
「天変地異」があってもヒトや地域間の繋がりは
永久に繰り返してゆくのだらうか。この種子のように・・・・・
湯あみを終えて「伝承園」で好物の「ひっつみ」を食す。
地鶏系のダシ汁(スープ)でイケルのだ。かつて昼時の団体さんのガイド曰く、
昔はイワシとかの煮干しであったそうな。とお歴々に解説・・
 まったく、そのとおりとうなずく。農家にはお米など作ることはあっても
食えない時があったのだ・・・
五穀や麦粉を練って鍋にヒッチギッテ(山田ではヒッツギルと言ふ)ぶち込む。
IMG_遠野紀行-8.JPG
食後は「上郷」の産直へ直行して「ミニソフト」@200円をゲット・・・・
新釜石道路を横切り旧住田街道に乗り北北西に進路を取る。
暮坪集落(クレツボ)への交差点や「六角牛山」南東側登山道入口を過ぎて
35号線への途中に・・・・・・ 
遠野市遺産第37号の荒神社がある。
「稲刈り」はまだ終えていない。ラッキーた゛。田の中の社なのだ。
春夏秋冬の絵が欲しくて通っていた。
35号線に戻る。やや東の方向の笛吹峠へ戻る途中の舘石集落で「ヤギ」が居る
河川敷を思い出す。
往路では視野に入り難いが復路では橋の袂(タモト)に放牧されている。
IMG_遠野紀行-9.JPG
彼(彼女?)も再三に見かけてはいるが素通りだった。ツレとニックネームは
「ヤギハシ」と命名はしていた・・・・・
 今日は袂に停車して挨拶に河川敷に降りる。ヤツは人慣れしているせいか
小生の言葉に反応して傍に寄ってきた。
IMG_遠野紀行-10.JPG
右のツノは何かの理由で折損か・・・
それにしても貫禄というか十数年以上も生きている風格に圧倒された・・
 不動明王と荒神社・・・まさしくヒトの邪悪な煩悩を寄せ付けないものを感じた・・
 このヤギにも・・・・合掌・・・jun.m










posted by 鯨と海の科学館 at 22:48| Comment(0) | 史・遺跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年05月11日

亀ケ森の一本桜と「絵入道標」

2012-05-10(木)今週の岩手日報にて紹介された「桜」を愛でる。
山田町から旧田老町まで35qの地点で国道45号から田代川沿いの南西へコースをとる。
(田老駅より手前の旧45号線からである。宮古北高コースではない。)
やがて川沿いに田老町漁協のサケ・マス第二ふ化場が川越しに見えれば正しいコースだ。
まもなく、小田代鉱泉への案内板を見て左へ舵輪をとり田代川本流に入る。
北リアス鉄路の佐羽根駅を左に見てグングンと進む。宮古市を起点とする県道40号と
合流すると亀岳(キガク)小学校前へ・・・・・ここを過ぎてすぐに右手に入る。
IMG_01県道標示有芸.JPG
君田地区から繋沢にある県道の案内板。この直近に「絵入道標」があった。
IMG_02絵入道標.JPG
調べたところ岩手県内では三ケ所程度らしい。山田町と岩泉町・そしてここ宮古市
貴重な存在である。
IMG_03絵入道標.JPG
道標の説明である。
IMG_04絵入道標.JPG
ガイドブックならぬ「ガイド・ストーン」で小生のように薄学でもガッテンだ。
震災後に新しい家族の一員となった猫も「フムフム」とうなずく。
IMG_05県道標示亀ケ森.JPG
道標に感動してウキウキ進むと酪農の施設を通過する。
ここで40号線とお別れして左の亀ケ森牧地へ進む。有芸とは有能な芸達者が大勢産出された
のか、あるいは「ゲイ」といふ今風の方がお住みなっているのか想像の域を出ない。
この分岐点は(N39°43°33sec・E141°51°56sec)付近です。次に、
やや平坦な場所に牧草地の管理棟を右にみて進み左カーブを二回ほど過ぎると50〜60m
程度の直線路となり左の路肩に有刺鉄線がある。ここが駐車スペースでみなさんが利用
している。近年になり鉄線の一部が解放されており親切な計らいである。
天候が良ければ、ここから左手の牧野の中に桜が見えるハズ。
(N39°43°50sec・E141°51°26sec)付近です。少々の誤差はお許しを・・・・
IMG_06亀桜.JPG
霧雨が濃く舞う。五里霧中でも到着した。
IMG_08亀桜.JPG
霧中の「桜」もオモムキがあります。
IMG_07亀桜.JPG
天女の化身か・・・・
IMG_09亀桜.JPG
ハゴロモを脱いだミタイ・・・・・・
IMG_2918.JPG
堪能したら帰路を戻ってもよいが時間に余裕があればそのまま亀ケ森・峠ノ神山の山麓をとおり
風景を満喫してもよろしいかと・・・・・
但し、ウシの放牧が間もなく始まるので牧野への立ち入りは感染を防ぐために避けたい。
東屋があり、手作りの弁当などいかがか。トイレも付近に整備されている。
かすんで見えないが振り返った写真である。この先に雨量計レーダーがあり「峠ノ神山」への登山道
入口が晴れていればみえる。山頂の少し先に「ミニ地蔵」が鎮座している。これについては後日に紹介
したい。
IMG11ミヤマキンバイ.JPG
東屋のそばに咲く黄色の花・・・・キジムシロかと思ったが微妙に違う。むしろ、「ミヤマキンバイ」
に近いと思ふ。自信はないが・・・・
IMG_12スズラン.JPG
カンバの仲間の林床下にスズランの群落もあった。秋になれば赤い実をつけるだらう。
註)誤ってウシの糞を踏んでしまった時・・・・踏んだその足のもう一方の足でも踏むこと。
これを怠ると左右の足の長さが大きく異なり歩行に支障がでる。(冗談・・・)
昔の先輩の教えでは牛馬の糞を踏むと背が伸びるという定説があったものですから・・・・・
 話ははマジになる・・・この先・・源兵ェ平へは左へとり、やがて北山集落を過ぎ鳥取春陽生誕
の地へ下りるコースと右手の林道を西へ下り「戸塚集落」を経て岩穴地区に入り和井内〜有芸線に
合う。これを右(北)にとれば有芸を経由して小本〜岩泉間の道ノ駅付近へ出る。
 左(南)へとると和井内地区の「茂市〜押角」線となる。茂市で106号に合流する。
 行程は130qであった。(帰路は源平衛コース〜106号)
 桜のピークは2012-05-13(日)か・・・・・合掌・・・・・jun.m





















posted by 鯨と海の科学館 at 17:36| Comment(2) | 史・遺跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする

2012年02月29日

郷土とむすぶ武蔵野より

1987年(元号で昭和の後半)発行のお手紙が年に数回、小生の父宛に届いていた。
開封はされていたが父はサラット眼をとおして「おまえも見ておけ」と言われた
記憶がある。おやじが他界して彼の古本や書類などの整理していて発見した。
 差出人は「小岩モモヨ」とある。おやじの恩師と教えられた記憶がある。
何通かを拝見して貴重な予感が現在でも抜けないでいる。
武蔵野とむすぶ.jpg
タイトルは「パクリ」となったことを陳謝願う。「モモヨ」様が連載で当方に
送付した一部の1頁目である。無学も文化だ。無学と「学」が無いのとは異質
なものであると心を打つ。昭和の初期は学びたくても学校へ行けない方もあった。
行くことができても「学」がない輩もある。・・・・・
武蔵野とむすぶ 001.jpg
2頁目からは山田湾の大島(オランダ島)の井戸について「清水」氏が纏めた
ものである。島の井戸の形成や植生そして島頂にある弁財天の由来について事細かく
纏めておられる。(若干推測も含まれるが。)
武蔵野とむすぶ 002.jpg
さらに、島の地質や井戸の集水面積など詳しく調べられており貴重な資料と考えられ
る。
2011-10-09オランダ島井戸.JPG
これは2011-10-09その大島の井戸の現状である。左奥にはブレスケンス号の記碑が
見える。井戸の蓋は鉄製に変わっているが小生が若い時は木製のものであったと記憶
している。推測するにバブルの絶頂期で一般市民から行政に危険であるからとのクレ
ームがあり強固な鉄製にしたものとおもわれる。
 当時この井戸の清掃をしませうという青年に「ソソノカサレテ」枯葉や空き缶など
の回収のため水中ポンプにて井戸水を汲み揚げて清掃をしたものだ。
 その青年こそ先般山田町へ宿坊を開設した「海太郎」氏である。携帯発電機や道楽
で使う船などたやすくあるわけではない。素行が不審だとか誤解されやすい彼であっ
たが「マビト」になった。ようだ。井戸に降下するのは小生の役目でその内側面は
足場となりやすい「グリ石」・・(径7寸から8寸の石)を積みあげた構造となって
いた。但し、コンクリートで補強されており歴史的には古いものとは思わなかった。
が、かつてはもっと素朴なつくりであったと考えられた。(但し緻密)
 あれから30数年経過しその外側(井戸の外側面)の構造が津波により暴露された。
井戸天端部はかなり大きな石で構成されており記録には無いがいつ頃改修されて
今日に至ったのか特定はできないでいる。これからの宿題か・・・・・
 一昨年から「三陸ジオパーク」構想がなされてきた。先般この山田も「鯨と海の
科学館」が被災遺構候補にあがった。この井戸もその「ジオサイト」として欲しい
ところである。思い込みかも知れないが地方の「宝」は眠っている。
 起こすのは地域の人かも知れない。
           ・・・・合掌・・・・jun.michimata

 

 
 

 

posted by 鯨と海の科学館 at 17:00| Comment(0) | 史・遺跡 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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