調査日程では第二日目(2013/03/13)
船越半島を時計まわりに大浦集落まで行く。秀全堂を右に見てさらに小根崎
コースへの林道を進む。漉磯集落への林道へは入らずにさらに進む。
やがてこの小根崎コースのルートから途中で右手に入る作業道に進むこの
ルートは地図で見てもあいまいであるのとメッツの要望もあって実施した。
山田湾を背中に見る感じである。
当協会スタッフの車両で行けるところまでゆくが数百メートルで崩落があり
ここから徒歩となる。想定内だ。(am09:54)
運転をお願いした沼崎君とは漉磯浜へ下山後落ち合うことにして
しばしのお別れだ。
蛇行しながら植林された杉の林間を縫うように作業道を歩く。
やや開けたヶ所で直径5mもある巨岩と出会う。衛星画像でも確認可能な
大きさだ。
チェツクする上田君。
それにしてもこの大きさ。(am10:25)
雰囲気は山林の管理のために作られた道だ。
と思いつつ歩を進めると「記憶」にある風景が現れる。
ヒョットして・・・・
やはり左は東で頂上へ、右は漉磯集落から第一番目の鳥居をくぐって来る西からの参道だ。
下山のときはこの第二の鳥居を過ぎると(いま来たルート)に入りたくなる。
上の写真が第一の鳥居(参道の入口)方面だ。
この直近に頂上への案内版がある。(1.0km)
この距離がライトかヘビーと思うかは体験してみないと・・・・・
下山ではライトなのだが・・・・
赤松と混じるコナラやミズナラの落葉樹の林をエッチラ・オッチラ登るとブナの
植生が徐々に増えてくる。
この日は想定していたとおり天気模様が芳しくない。空がスッキリしない。゛
頂上へ続く尾根にはいまだに残雪があった。踏み跡とがあり数日中に訪れた方もあったか・・
(am11:40)
頂上前の小ピークを越えて尾根の右側(南西)をトボトボ進むと頂上直下にある
霞露ケ岳神社に参拝する入口が見えた。なぜかヒノキに似た木もある。
現地調達と思しき石段が本殿(社)へ・・・・・
それにしても信仰というパワーは尊敬する。
剣が奉納されている。
この由来の解説はのちに述べるとして頂上へ・・・・・
社から右へ抜けると山頂が見えた。
(am11:50)山頂で記念撮影となった。ガッツポーズの上田君。片手に調査表、右手は携帯電話やgpsだ。
七転び八起きでここまできた。これは明日の鯨峠でも見られるだろう・・・・・
あいにく見通しは悪いが西には山田湾・北には川代や石浜(宮古市)が見える。
ここから下って漉磯浜を目指す。
頂上にある案内板の右奥(北東)が小根崎コースである。
このコースも魅力的で四月下旬にはバイカツツジ(梅花ツツジ)が散見され
15mm程度の花が可愛いい。秋にはホツヅジが咲く。
下山にはいる。すぐ下の道標は右にゆくと社の前を通過して参道
(先ほどきたコース)となる。左は漉磯浜へのコースだ。
ややしばらくアップダウンのコースには「ブナ」の植生が見られる。
海岸から数百メートルの場所でこのようなブナの原生林に会えるのは
稀だ。世界遺産とまではゆかないが「山田遺産」にでもと思ふ。
かつてこのブナの本数を確認しようという野望をもった。
夢物語で終わるか・・・・・
このような尾根筋をトボトボと行く。
この小ピークを越えるとほぼ下りとなる。
間もなく赤平金剛のトップとおぼしき場所だ。崩落が進んでいる。(13:25)
手すりも劣化が見受けられるので慎重に歩行すること。
ときとしては自然石を利用した石段もあるが全面的に信頼しては
いけない。最下段にはやはりピンク色の管理番号が付されてある。
断崖の樹間からは岩礁がみられた。通称は「御門口」と呼ばれている岩だ。山田湾と
船越湾間の観光定期船では定番のコースであった。奇跡的に回収された当館の
スリーディーのディスクの空撮映像に「御門口」が登場する。
「海からの贈り物」と題して残る。
チョイ下ると漉磯海岸のやや南にある「七つ洞」だ・・・・・
波の浸食で磯に無数の大穴がある。
沿岸地図ではここを指すが地元の漁師さんがもう少し南側だと
話された記憶が残る。そのずっと先が「大釜崎」か・・・・
この海岸線は最東端でもあり船舶の往来が多く「海の銀座」とも呼ばれる。
タイミングがよければ「サンフラワー」にも逢えるのだ。
漉磯浜へもう少しのところで倒木を切り歩行ルートを確保している。
ここで待ち合わせのスタッフへ連絡を取るが携帯電話はどのメーカーも
outであった。シマッタと思う。頂上でのほうが割合に通信環境はよろしい。
ついに浜へとうちゃこ・・・降り口を臨む・・・(14:13)
川を渡りこちらへ来たが本来のルートは渡る前に上流側にあったのだ。
巨岩にペイントされた指図されたとおり左岸をやや登り木橋を渡り舗装された
道に至る。しかし津波でこの橋は消滅している。かすかに橋梁というか橋を支える
コンクリートの基礎が残るのみである。初めて来たときはこの橋の下にはダイモンジ
ソウがあったのを記憶している。それも完全に消滅した。追記・20014-06-19残存確認
頂上を降りるころからポツポツ来ていた雨は小康状態であるが低気圧
の影響で海は吠えていた。
この波が岩礁のカケラを丸くしてゆくのだらう。あまねく全てのものが
丸くなるようにと思いつつスタッフの車でここに別れを告げた。
大浦小からの往路では漉磯地区「椎茸生産組合」の施設を過ぎ左へ
とり参道コースへ行く。浜からは右折となる峠道だ。
峠に近づくと右手に旧字体で霞露ケ嶽の道標と第一の鳥居がある。
付近には駐車スペースがあるので利用されたい。この鳥居を過ぎ
第二の鳥居(午前にとりついた場所)のほんの手前である。
この中間に旧参道の一部とおぼしきルートがあるが不明瞭だ。
峠へ戻り唯一の民家を過ぎるとすぐに左手に・・・・・
これだ、大浦集落の霞露ケ岳神社(里宮)からダイレクトに真東へ秀全堂をとおり抜け
ここへ来るルートだと確信した。
ここで町の水産商工のAkasaki君と自然保護官のFukaya氏と調査の同行予定が
急きょ不可能となったことから様子を見にきたとのことで合流する。
(15:47)
大浦集落へ戻り「秀全堂」へ・この裏手の山から前述のルートが始まるのだ。
冒頭に出た「小根崎コース」の最終地点(大網)付近に窟があると言わ
れているがまだ確認はしていない。
この窟は1,737年(元文二年)智芳秀全禅師が里にある観音堂で入定修行の
後にここでも六月一日から九日その窟に篭り苦行をし再度、里へ戻り入定に入
り同三年六月三十七才で没。
その17年後(1,755年)道路開削の祖鞭牛和尚がこの地で血書供養をする。
このあたりは「大網沢」という海へ注ぐ水流がある。
漁民の方は通称このあたりを「大網」と呼び古来から良好な漁場としてきた。
また、このやや北側の転石の多い磯一帯を「三蔵畑」という地名で呼ぶ。
この二人の共通点に手段は異なるが一般民衆の幸せを願いつづけ往生した
ことである。
中国の西遊記に出て来る三蔵法師はあまりにも有名だが実は一般名詞
であり固有名詞ではないのだそうだ。ということは彼らの舞台となったこの
場所(修行した)を三蔵端又は三蔵畑(サンゾウバタ)と呼ぶに違和感は無い。
・・・・合掌・・・・jun.michimata
※引用(参考)文献 山田町史年表 p-74
〃 上巻 p-1042〜
追伸 今回のルート図 赤がスタートのルート
黄色が既存の調査ルート グリーンは車両で移動したルートである。
分岐(ポイントの写真入り)が載るお手製のマップは「道の駅やまだ」の
案内所でご覧ください。